真っ白な ノートが黒く 光るまで 7字綴った 夕べに恋慕を
鬱屈した感情を発散させたかったのか、あるいは、体に重く押しかかる無気力に抵抗する意図だったのか、まだ何も書かれていないキャンパスノートのページに、南無妙法蓮華経の7字を一心不乱に書き殴ったことが一度だけあった。まだ若く、自分が生きていく意味を探究することに多くの時間を費やしていた頃の話。気がつくと夕方で、道路向こうの高層の建物に押しつぶされそうな古びたアパートの1階の部屋に、雨上がりの西日が差し込んでいた。
お世辞にも「写経」とは言い難い感情が爆発した跡は、もはや隙間なく題目で覆われていて真っ黒にも関わらず、光を反射して輝いていた。あの夕方の景色は、青春の記憶として、あるいは文字通りの黒歴史として、今でも鮮明によく覚えている。
あのあとも大変なことばかりで、しかも当時の私は迫り来る難儀になす術もなく完敗だった。
今振り返って、何が不足していたのかを考える。賢治文学やそのベースとなった法華信仰の周辺について知っていくうちに、それが何だったのかがわかってきた。それは、佛法の各法門の中で最も肝要とされる妙法蓮華経の中でも、聖典の真髄として最も重要視される第16章に説かれる「恋慕」「渇仰」だった。
法華経は神々と佛菩薩たちの美しいパンテオンである。この聖典には無量無数の尊格が、無始輪廻の旅をしながら、関係性や名前を変えて何度も登場する。この壮大な命のドラマへの「憧憬」がわずかでも無かったから、絶望は悦楽へと昇華できなかった。必要なのは、子どもがプリキュアやアニメのヒーローに抱くような純粋な憧れだった。私は確信を持ってそう結論づける。
7字は煌びやかでコズミックなあの万華鏡を凝縮した無上の芸術なのだ。それでいて、この世が素晴らしい世界であることを見失わないように覚えておくためのダーラニーなのだ。
しかし、神聖な世界への憧れなど微塵もなく、ただただ不満や不安や恨みつらみを込めて書き殴ったあの青臭い午後が、私を今いる場所まで引っ張り上げてくれたのだとも思う。そういう意味で、いつまでも青臭い求道者の熱情は持ち続けていたい。
今宵の一曲は、JYOCHOで導き、捧げて。