藤井 風 「花」 × 「いちばんすきな花」 コラボムービー
「いちばんすきな花」リアタイで見ていて、放送が終わってもうだいぶ経つけど、まだ時々思い出しては見返したくなる。久々に良いドラマだったな。
身辺が大きく揺れ動いている時こそ、日常系の映像作品にまったり癒される時間を意識的に持つようにすることが大事になってくる。
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恥多き
過ち多き
この歩み
佛(ほとけ)に向かいて
懺悔し行かん
昔、この国に北一輝という男がいた。彼は、日蓮大聖人の受難の地である佐渡島に生まれた。独特の政治的な言説を展開したことで有名であり、示威的とも取れる動向も見られ、「魔王」とも称された。
私が彼に惹かれるのは、宮沢賢治と同じく彼もまた、熱心な念仏の家系に生まれたにも関わらず、法華の道に転向している点、この1点にある。
北は永福という行者との縁で法華信仰に目覚めたとされているが、私にはそもそも「佐渡」という生まれ故郷の土地の利もあったのではないかと思われてならない。北も妻すず子も、法華の功徳力によるものなのか、稲荷神の神懸かりや夢諭しを受けていたらしい。
ちなみに、稲荷神を低級神霊と見る向きもあるようだ。実際、宗教的臨床に身を置かれてそのような感想を抱かれる方が多いと聞く。しかし、「最上位経王菩薩」と称えられ厚く供養する向きもある。この評価の違いは何なのだろうか?個人的には、稲荷神が低級神霊の相(すがた)を現ずる場合は、済度対象の機根に合わせて、あえて低級であるかのように演じているのではないかと思われる。これはあくまでも霊感を全く持ち合わせていない私の想像の域を出ないのだけれども。事実はどうあれ、私は神であれ人であれ、貴賤を問わず敬いと礼を尽くしたいと思う。その点、北一輝には自分より年少の人にも敬語を使っていたというエピソードが残っている。さすが法華行者、常不軽を実践しておられる。私はまだその心が未熟なので、懺悔し精進したい。
法華経はその長い歴史の中で無数の在俗在野の行者たちを生み出してきた。北夫妻をその系譜の中に数えることもできるかもしれない。法華行者はなべて、この世を世尊(バガヴァット)が主宰する浄土「常寂光土」ととらえる。それゆえに本来浄土であるべき現実の社会の改善に取り組む傾向性が極めて強い。日蓮然り、北一輝然り、現代の日本山妙法寺や創価学会然り。
北が息子に宛てた遺言を読んだ(青空文庫で公開されている)。大変美しく感動した。内村鑑三の『後世への最大遺物』を彷彿とさせる。少し長いが、以下で引用してこの記事を終えよう。
遺書
大輝よ、此の経典は汝の知る如く父の刑死する迄、読誦せるものなり。
汝の生るると符節を合する如く、突然として父は霊魂を見、神仏を見、此の法華経を誦持するに至れるなり。
即ち汝の生るるとより、父の臨終まで読誦せられたる至重至尊の経典なり。父は只此法華経をのみ汝に残す。父の想ひ出さるる時、父の恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、迷へる時、怨み怒り悩む時、又楽しき嬉しき時、此の経典を前にして南無妙法蓮華経と唱へ、念ぜよ。然らば神霊の父直ちに汝の為に諸神諸仏に祈願して、汝の求むる所を満足せしむべし。
経典を読誦し解脱するを得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、誦住三昧を以て生活の根本義とせよ。即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、而して諸神諸仏の加護、指導の下に在るを得べし、父は汝に何物をも残さず、而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり
昭和十二年八月十八日