7オンスの庭

文化あふるる言の葉の庭

樹神

 

愛するが ゆえに激しく ぶつかりて より深みにて 睦み合えたら

 

 

本日はインドの樹神のお話をば。

 

 

『諌暁八幡抄』(昭定・1843頁)において、妊娠成就祈願を掛けられた樹神が自分の力に負えないので、上位の四天王に依頼したと云う説話が紹介されていますが、この説話をヒントにして、細かい日常的な護りは、先ず倶生神が引き受けてくれ、倶生神の手に余る場合は、上位の諸神・菩薩等に守護の要請をしてくれるのではないかと私は想像しています。

法明教会

http://www.homyou.hello-work.jp/ron62.html

 

 

樹神のエピソードの元ネタは以下。

 

 

婆羅門(尼倶律陀)は、『自分は年老いて、死の時が近づいてきた。しかし、蔵庫の諸の財宝を譲るべき子どもがいない。』と、思っていた。   その婆羅門(尼倶律陀)の家の側には、樹林神があった。そこで、その婆羅門(尼倶律陀)は、樹林神に出向いて、『子を授けたまえ。』と祈請した。  しかし、それから、多くの歳月を経歴しても、全く効験がなかった。その時に、尼倶律陀は、大いに瞋忿(怒り)を生じて、樹林神に向かって、このように 語った。   『私は、汝(樹林神)に仕えてから、既に、数年を経ている。けれども、全く、何の福報も見られない。 今から、当に七日間は、至心を込めて、汝(樹林神)に祈請を捧げる。しかし、それでも、また、何の効験もなければ、必ずや、汝(樹林神)の祠を焼き払う であろう。』と。 

『諌暁八幡抄』

諫暁八幡抄 - soka-gakkai-international-0507 ページ!

 

 

これはバウルの信仰姿勢を彷彿とさせる。

 

 

普通の人は、何かが起きたとき、怒りや悲しみを目の前にいる人に向ける。

しかし、行者はどんな感情でも、それが怒りなど負の感情でも、喜びでも、天に向ける。それが、普通の人と行者の違いです、と。

 

 

聖書においても、ヤコブが神の化身と取っ組み合い、「イスラエル(神と戦うの意)」という名を授けられている。

 

 

道を修める者の心はいつも天に向けて開かれている。そこに取り繕いは混ざらないゆえに、時に熾烈な交わりになる。

 

 

佛典で樹神といえば夜叉(梵語:ヤクシャ)。今回は金色夜叉の歌を聴きながらお別れ。

 

 

 

 

 

 

 

 

おまけ

本日のおまけは、葉山の不動尊

「滝に打たれ衆病の治療せし者数ふるに遑あらず」とあり、実際に南無妙法蓮華経のお題目を唱えながら、一心に水に打たれて念じる人が暫々見られました。