幾千の 星々の如き 白蓮華 養う泥に 私はなりたい
私はこのように聞いたことがある。不動明王が頭に載せているのは、明王部の王様であるから当然、王冠だろうと思われているが、実はそうではない。そうではないならば、では何なのかといえば、それは衆生が座すべき蓮である、と。蓮の花は、泥水から出て泥水の上に咲く。泥が蓮を養うことは、親が子を養うが如し。つまり、不動明王の頭頂の蓮は、自分を勘定の外に追いやって、衆生の成道を第一に考える仏の親心を象徴しているのです、と。
こうしていま振り返ると、陀羅尼品の一節「寧ろ我が頭の上に上るとも法師を悩すことなかれ」が想起される法話だった。あの話を聞いた頃は幼かった私も、今では一人前に疲れ切った大人を演じているけれど、今になってこの話を思い出すのはきっと、私の本質は何も変わっていないからだと思う。
みんなが夜空の星々のように白く咲けるように養い育てる泥。そういうものに私はなりたい。
泥も磨けば輝く、というブログ記事。10年以上前の記事だけれども、今、私の心にピタッと届いている。このブログも誰かにとってそういうものになれればいいな。