いろいろと 不自由多き 身なれども 人身受け難し いますでに受く
こころの時代
行善寺 佛子園の特集動画
賢治手帖や常不軽菩薩の話も出てくる
いろいろと 不自由多き 身なれども 人身受け難し いますでに受く
こころの時代
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賢治手帖や常不軽菩薩の話も出てくる
しなやかな めまいがあって 手をついた 場所から果樹が 広がってゆく
早月くら
懐かしい一首。なぜ懐かしいのか?それはきっと、まだ幼い頃、この短歌の描写のような幻影を私が何度も見ていたからなのかもしれない。ゆっくりと伸びゆく白チョーク風の果樹もあれば、少年ジャンプに出てくる必殺技のような荒々しく飛び出す果樹もあっただろう。実るものも種類が豊富で、ひとくち食べると異世界に意識をトリップさせる果実があったり、また、食べたら腕が伸びたり分身できたりする果実もあったろう。想像力は偉大だ。地獄の中に天国の一丁目を飛び地で用意することだって簡単にできる。いつまでも童心は心のどこかに秘めておきたいもの。
本日の一曲は、 Anoushka Shankar とNorah Jonesで Traces Of You。
わが恋を 人知るらめや しきたへの 枕のみこそ 知らば知るらめ
私の恋する気持ちをあの方は知っているでしょうか。いえいえ、知らないでしょう。私の枕だけが、知っているとしたら知っているでしょうね。
「敷き妙」とは、寝床に敷いて寝る布のこと。「枕」をいざなう枕詞。春眠暁を覚えず。この時期は枕こそ離れがたい恋人。
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敷き妙の 春の枕に 悟りしは この世の他に 楽土はなしと
この世の他に浄土なく、この世こそ唯一の浄土。西の極楽も、南の補陀落も、東の妙喜国も、天のトゥシタ宝宮も、みな麗しい楽園なれども、往ったのちには還る定め。結局はこの現実世界こそが、命が萌え輝く「通一佛土」。私たちは通常、目が曇っていてそれが見えないけれど、本来はこの身はいつだって浄土にあるし、どこに行こうともそこが花の浄土となる。
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日は昇る 世の暗闇を 取り除き 人の心を 照らし出すため
菩薩も同じこと。 不浄の仏土に生じても、衆生を導く為にであって、愚癡の暗闇と交じり合う為にではない。 ただ衆生の煩悩の闇を照らし滅するためにのみ生じるのだ。
『維摩詰所説経』見阿閦仏品第十二
(「つばめ堂通信」より)
東方妙喜国から願生したヴィマラ・キールティ。商人の身を取って示現し、在家の生活者として法を説き続けた。シャーリプトラに「なぜ住みやすい東方の浄土を旅立ち、わざわざ穢れの多いこの忍土の国に生まれてきたのか?」と問われて、上記のように返答した。観世音が供養された高級な宝石である瓔珞を、惜しみなく世尊と多宝佛に捧げた故事に通じる。人はこの世の満たされることのない不毛な種類の喜びを貪るために生まれてきたのではない。ひどく散らかった部屋を綺麗に片付けた後のような、庭の手入れをした後の爽快感のような、砂場で遊んで泥だらけになった幼子がシャワーを浴びて本来の清らかな肌を取り戻すような、そんな種類の喜びを求めて生まれてきたのだと思う。
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本日の一曲は、CHONでPerfect Pillow。
巡り合い 交わるも須臾 通り過ぎ またどこかでと 見送って久し
明け方の夢に、京都は大原、寂光院の持地菩薩と五色の糸が出てきた。以前に見たアニメ「平家物語」で感涙のラストを飾る。にぎやかに集った平家一門もうたかたの龍宮城。
流れる水は腐らず。無常の理がもたらすものは悪いことばかりでもない。またどこかでと互いの道がいつか再びみたび交わることを夢見るのも人生の愉しみ。
語りは終わり、物語は締めくくりに入る。 六万体地蔵菩薩から掛け渡された五色の糸を握るのは徳子。先程も述べましたが、五色の糸には掛け渡された者が浄土へ導かれるという仏教的な意味があります。握る手の上にはアゲハ蝶。アゲハ蝶は平家の家紋である上に、仏教的に輪廻転生という意味が込められています。
第3代の建礼門院(平清盛息女、高倉天皇中宮、安徳天皇母)は、文治元年(1185)年9月に入寺し真如覚比丘尼と称した。源平の合戦に敗れた後、寂光院に侍女たちとともに閑居し壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子安徳天皇の菩提を弔いながら、終生を過ごした。
今朝の一曲は、Wiz KhalifaでSee You Again ft. Charlie Puth。
ELLEGARDEN Starfish
そらにみつ 思ひの煙 雲ならは なかむる人の 目にそ見えまし
少将更衣
空を満たすほどの狼煙のように君を想うこの気持ちが、どうか天まで昇り、大きな雲の形をとってくれたなら、君の目にもきっと見えただろうに。
こんな星の夜は
全てを投げ出したって
どうしても君に会いたいと思った
こんな星の夜は
君がいてくれたなら
何を話そう
とか
一緒に過ごせたかもしれない青春。一緒に過ごせたかもしれない金曜の夜。想像力は甘露の泉。今の私にできることは歌って衝動が収まるまで泣くことしかない。これもまた人生の趣か。
紅塵の 中にも善の 知識あり 学び終わりて 敬いて辞す
旅を続けるには、今ある楽しみを去らねばならない。大丈夫。どこに向かおうとも、その身が、その場が楽土となるのだから。
昨晩、夢を見た。妙齢の美しい女性が「あめちゃん****(聞き取れない言葉)」と言いながら、時々実際にフラッシュバックする痛い記憶の傷跡の一つ一つに飴玉を差し込んでいく。すると、飴玉が溶けてきたのか徐々に痛みは甘いエクスタシーに変わり、気持ちが良くなる。
今日見た白昼夢では、燃え盛る炎の筵(むしろ)に涼しい顔で座っている自分のヴィジョンが見えた。
ほかにも不思議なことが多くあった。これらのことは、この身で、今いるこの場で、この世の浄土を見ることができるという教示だと思う。