雉子(きじ)ぐるま 子の雉子のせて 走りけり 幼児(おさなご)われは 曳きて遊びし
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先日、車を走らせていたら野生のキジを見かけた。赤い鶏冠があったので、あれはオスだったに違いない。こんな交通量の多い通りにもキジが出るようになったのかと驚いた。
報道で、野生のクマが山菜採りをしていた人を襲ったニュースが連日報じられていた。どうやら獣の活動域が人間の生活圏に食い込んでくるのは避けられない情勢のようだ。ならば今後模索すべきなのは共存か。いにしえには動物との共存もなされてきたようだった。
たとえば預言者エリアはカラスに食料を運んでもらっていた。
シッダルタ世尊やアッシジの聖フランチェスコは動物と意思疎通ができたという。近代の聖者・中村天風には、荒ぶる虎がいる檻の中に入っていって見事にテイムしたという逸話が残されている。
エリア、シッダルタ、フランチェスコ、天風。彼らに共通しているのは、揺るぎない信念とその信念に基づく行動力だと思われる。
ここでエリアについて考察してみよう。彼はモーセ以降最大の預言者と評価されている。ナザレのイエスの変容の際には、モーセと並んで顕現している。何が彼を偉大にしたのか。詮ずるに、カルメル山におけるバアル信仰との闘い、ここに彼の活動の偉大さが端的に現れている。エリアは当時国家の庇護を受けていたバアル信仰に祈雨の闘いを挑み、見事に勝利し、バアルに力がないことを証明した。そして、力ある真実の信仰に立ち返るよう説教した。片手に燃える炎、もう片手に聖典を持つ肖像画で知られるエリアらしい、烈火のごとき信念と行動力。神に生活を捧げる隠遁者であり、同時に、神の意図を遂行する社会変革者でもあった。
ちなみに、この日本においてもエリアと同じようなことをした人がいる。日蓮大聖人である。バアル信仰のように国家の庇護を受けていた極楽寺良観(忍性)。彼に対して、祈雨の闘いを挑み、見事勝利した。現世安穏を説く法華経を蔑ろにした良観の、時節を誤った持戒信仰と異世界頼みの念仏信仰に力がないことを証明した。
現代の感覚からすると激しすぎる印象を受けるが、その激しさこそが聖者たちの力の源泉だったのも事実なのだろう。かなめは胆力か。動物との共存を考える上でも、ただ動物が好きとか優しいだけでは難しく、あちらに軸があるように、こちらも軸を持って対峙することがうまくいく秘訣になってくると思われる。
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話をキジに戻そう。
車窓から野生のキジを見て、冒頭の一首と結びついた。
「きじぐるま」は福岡をはじめ九州を代表する郷土玩具の一つ。由緒は諸説あるが、以下のようなものもある。
その昔、最澄(伝教大師)が唐の遊学からの帰り道に、本吉山のふもとに立ち寄られました。その時、山の中腹にひとすじの光明がさしているのをごらんになって、「これは不思議、ありがたい仏様のおしるしにちがいない。」と信じ、光を求め樹木や植物の生い茂る山中に足を踏み入れられました。 しかし、道とてない山の中、それに生い茂る樹木にさえぎられて、光の方向もわからず途方にくれてしまわれました。するとその時、どこからともなく1羽の雉子(きじ)が大師の頭上に舞い降りてきて、大師を道案内しながら、光を放つところに導いていきました。 光明を発しているのは1本の合歓木(ねむのき)でした。この木こそ霊木(れいぼく)だと大師は悟り、この木の幹の根元で十一面四十手観音像を刻みあげ、清水寺に納められたのが観音様の由来とされています。雉子は昔から瑞兆(ずいちょう=めでたい鳥)とされ、親子の愛情が深い鳥として慈しみ尊ばれてきました。
2011伝説 きじ車の由来・千寿の楽しい歴史 : 千寿の楽しい歴史
きじは日本の国鳥でもある。オスは勇ましく雄々しい、メスは愛情深いという。童話・桃太郎の随行にもきじがいる。キジはめでたい前兆でもあるという。今月は何かいいことがあるかもしれない。期待していよう。胆力を養いながら。