くわんおん の しろき ひたひ に やうらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ
会津八一『鹿鳴集』(1940年)
ひらがなの分かち書きで表記すると、まるでドラクエの復活の呪文のよう。
漢字で表すと、
「観音の白き額に瓔珞の影動かして風渡る見ゆ」
となる。
会津八一は、このようなひらがな書きを得意とする詠み手だった。また、以前このブログで取り上げた窪田空穂とは同僚にあたる。
下にリンクを貼っている砂子屋書房の記事にもあるように、
歌に描かれている景色は、歌人自身にも夢か現かわからない神秘的な景色となっている。どこで見た観世音かわからなかったり、物理的に動くはずがない瓔珞(ボーディサットヴァが身につける煌びやかな装飾)が風に靡いて揺れたように見えたり。
記事の評者は
この歌に、微風に揺れる瓔珞と白面の美女の姿をした観音像がひっそりとたたずむ光景を、私は想い見るのであった。
と綴っている。何とも美しい心象スケッチだと思う。美しい夢幻にしばし魅せられる。
夢幻は天竺の言葉でマーヤーと呼ばれる。“神が人を導くために夢や幻を見せる“という主題は、ウパニシャッドやトーラーのいにしえより、東西あらゆる文化圏で伝えられてきた。日本でも“夢諭し“のエピソードは神社仏閣の縁起から古典の説話に至るまで枚挙にいとまがない。例えば、石山詣でが流行した時代、女流作家が勤行中に寝落ちしてしまい、夢の中で法師に扮した観世音に水をかけられて目を醒ましたという逸話が残っている。
石山寺に於いて参籠の女性に夢を見せる観世音の図