来ぬ人をまつほのうらの夕なぎにやくやもしほの身も焦れつつ
待ち人が来る呪い歌。定家の歌(『拾遺愚草』二五六八)だが「唱ヘごと集ー長野県諏訪湖畔地方ー」(『旅と民俗』昭和九年八月号)に、この歌を三唱とある。
わが国には和歌即陀羅尼という思想が古来より遺されている。諸教の導師にも短歌を嗜む方が多くいる。
岡田自観(茂吉)『歌集 山と水』
中山みき『おふでさき』
歌は祭礼を彩る花でもある。
平安時代の後期には、 「神明(しんめい)は和歌をよろこびたまう」といって 歌人たちは歌合で詠まれた和歌を神社に奉納しました。 道因(八十二)はみずから主催した七十五番歌合に 俊成(八十三)の判詞をつけて住吉社と広田社に奉納、 西行(八十六)は自作の歌で歌合を編んで俊成と定家(九十七)に 判詞をつけてもらい、伊勢神宮に奉納しています。
よく拝見するブログより。
跡見花蹊(あとみかけい)という教育者の観音信仰にまつわる記事。
よく夢の話をして、 「大悲の御手にすがってゐるのをみた」 などと話し、心から安らかに、人のして下さるとほり有難くお受けして朗らかに仕合わせに自分の身が楽土にあるといふことを深く信じてゐた方でありました。 それだけに仏様にはよくお仕へなさいまして、八十七歳で逝くなられますまで、仏様の朝のお給仕は、お茶を沸かすからして自分でして、人手にふれさせませんでした。
いかに時代が移ろうとも、いにしえの人のこういう凛とした信仰姿勢にはいつまでも恋慕の念を抱いていたい。
ちなみに、花蹊氏は日蓮大聖人のバクタでもあったようで、記事の終わりでは御書にも触れられていた。
艮(うしとら)の廊(わたりどの)にて尋ねさせ給へ、必ず待ち奉るべく候。(霊山浄土へ来られたなら、その入り口である艮(北東)の渡り口で日蓮をお呼びなされ。必ずそこでお待ちしておるから)
波木井殿御書