Your Body is the Temple of the Lord | Bill & the Bloomers
聖なる主 天の中の天 大覚の
世尊の御稜威(みいつ) われらの内に
最高の主は万物の中に等しく存在する。(ギーター13:27)
"世尊"のエンパワメントは、"われら"ひとりひとりの内に-
昼休みにマグノリアが群生している公園に行くと、もうすでにいくつかの木では蕾に産毛が生えていました。撫でてみると、まるで小動物のような手触り。これから寒さ厳しい冬に入りますが、このマグノリアたちはすでに春の訪れを予見しているかのようです。マグノリアだけではありません。この森全体がやがて来る春の到来を証しようとしています。
いまはまだ枯れた状態の木にも、万物の春は内住しているのです。
例えば、最蓮房宛の『諸法実相鈔』に明確に示され、その後、『御義口伝』などに継承される「凡夫本仏」の思想がある。釈迦仏は迹仏であり、真の本仏は我々凡夫に他ならないというものである。これは本覚思想的な発想ということができるが、単純な現状肯定の堕落思想と断罪するのは間違っている。そうではなく、凡夫である我々が信仰を一つにして積極的に活動していくことが、肯定的に評価されるのである。中世後期には、京都の町衆など新興の都市民の間に日蓮系の法華信仰が急激に広がり、彼らの活力の源になるが、そこではこのような凡夫の活動に価値を置く思想が大きな役割を果たしたと考えられる。 このような思想の源流は、日蓮の確実な真撰遺文の中に見られる。『観心本尊抄』では、一方では釈迦仏を外に実在する仏と見ながら、他方では一念三千論に基づいて、「釈迦・多宝・十方の諸仏は我が仏界なり」と、釈迦も己心に含まれるとする。後者の面が強められれば、凡夫本仏論に移行することは不自然ではない。こう考えると、凡夫本仏の思想は日蓮自身に源流を持ちながら、その後の日蓮の門流の中で明確化され大きく発展して、社会的にも役割を果たしたとも言える。あえて言えば、日蓮の思想は日蓮個人で完結するものではなく、その門流まで巻き込んで発展する集団的な創造の営みと見ることもできる。
日蓮遺文研究の最前線 末木文美士氏(2/2ページ):中外日報